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    • 2019.06.21 Friday
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    土曜開所日のこと

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      JUGEMテーマ:軽度発達障害児

      桜が咲いてからの方が寒い日が続いていますが、
      新年度の4月も半ばを過ぎました。

      NEC_0167.JPG


      暖かくなってくる3月、4月は、
      動きやすくなる時期でもあり、年度の切り替えともあって、
      毎年、新しい利用者が一番増える時期でもあります。

      そのため、4月4日の土曜の開所日では、
      施設内の禁止事項やルール・マナーの確認を行いました。
      入所時に説明を行っていたり、施設内にも掲示はありますが、
      その理由や意味を改めて考える機会として設けました。

      現代ならではの携帯電話に関する禁止事項は、
      訓練時間中の使用禁止の他、
      利用者同士での番号等のやりとりも禁止しており、
      訓練時間・施設外での利用者同士のトラブルを回避することで、
      訓練に集中できる環境を壊さないようにしています。

      また、基本的なルール・マナーとして、挨拶や返事をきちんとすること、
      大きな声を出さないことなどを掲示しています。

      挨拶や返事は普段からしていると、、
      慣れない環境、緊張している心境になる実習時や就労時でも、
      習慣として、自然に出やすくなること。

      大きな声は周囲を驚かしたり、不快にさせたり、
      または必要な指示が聞き取れなくなってしまうため、
      大きな声を出す必要のない、適切な距離で会話をすること。

      理由を理解することで実行しやすくなる他、
      他人の嫌がることはしないといった当たり前であっても、
      具体的にどういうことが当てはまるかという具体例の確認も行いました。

      嫌がらせなどの悪意のある行為はもちろんですが、
      他人との距離感というものは難しいもので、
      実際の距離として近づきすぎてしまったり、
      心理的な距離として突っこんだプライベート情報まで聞いてしまったりと、
      やっている本人としては悪気はないが相手にとって不快なことというものは、
      集団の中で擦り合わせて身に着けていく必要があります。

      1回話したからと、確実に身につき改善するというわけではありませんが、
      逆に繰り返していけば、ある程度の意識付け、改善が見られることでもあります。

      ただ、半日固い話だけというのも受け手が疲れてしまうもので。
      この日の後半は、ブラックボックスというゲーム形式のワークも行いました。

      ブラックボックスは人の話を聞く、わかりやすく伝えるというテーマで、
      出題者がランダムに選んだ言葉を、
      回答者側が質問をして探りながら当てるというものです。
      NESTでは、出題用の言葉を選ぶ前に、
      動物や乗り物といった決められたカテゴリーで思い浮かぶものを書き出して
      連想力や記憶力も鍛えてみたり、
      逆にランダム要素があると難しい場合は、
      自分で決めた言葉のヒントを考えてと簡略化したりと、
      グループごと楽しめる難易度を設定しています。

      実際、それぞれのグループで盛り上がり、新規利用者にとっても、
      コミュニケーションのきっかけになったようです。

      この時期は、新規利用者はもちろんのこと、
      既存利用者にとっても、慣れない人が増えるという変化の時期でもあります。
      春だけとは限りませんが、変化の刺激を
      よいステップアップのきっかけになるよう支援していきたいと思います。

                         生活支援員 中村

       

      障害者雇用において職場定着が何故必要か

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        JUGEMテーマ:軽度発達障害児

        今年度の就職戦線は売り手市場と言われている。そのため一部大手では、優秀な人材を確保すべく、賃金体系だけでなく、福利厚生制度の見直しや拡充を図っている企業も少なくないと聞く。例えば、このところ銭湯の廃業と同じく減少の一途であったものの、集団就職時代や高度成長期には一般的であったものに、若手社員向けの(男女)独身寮がある。これも、就職活動中の学生に対し魅力的な企業と映る条件の一つとして、斬新な施設に整備され、いま風に復活しようとしている。

        考えてみれば、社員を丸抱えするような福利厚生制度は、日本企業の特色の一つであった。それがいつの頃からか、おそらく眠れる20年の、このデフレ期間中に変容し、代わりに生じた現象が、人材派遣制度の興隆やブラック企業の跋扈である。売り手市場において良き人材の応募が増えるよう自社の待遇制度を改善するのは結構なことに思われるが、景気の風向きが変わり一転、就職戦線が買い手市場になったらどうなるのか、おそらく大手といえども、同様な熱意で待遇改善に取り組むとは考えられない。

         あえて日本企業の特質と言ったが、もっと広く捉えれば、丸抱え体質には、日本社会特有の歴史的遠因、あるいは素地といったものが、ここには作用している。幕末期や明治時代のわが国に渡来した西洋人の中には、日本人の仕事における従事ぶりを見て、いわゆる彼らの産業社会における労働とは異なる性質の働き方を看取した者がいたのは、なにも不思議なことではない。

         当然ながら、そこには産業化の進展の度合いによる差異もあったであろうが、それだけではないこともたしかである。というのは、日本が工業化で西洋に引けをとらない段階に達しても、彼我の間には、仕事観あるいは労働観において相違が見られたからである。

         工業化というのを、働くという面から大急ぎで要約すれば、分業化である。産業革命の本質が、技術革新による分業化の促進にあり、そこから人間も、工場制の担い手たる資本家層と、分業体制に組み入れられおのが労働力を切りうるしかない労働者層とに大別されることになった。(詳しくはアダム・スミスやカール・マルクス等を参照)ここにおいて、労働者が辛うじて社会の一員だったのかも覚束ないが、日本における家族や地域あるいは企業一員のごとく会社(工場)の一員だったわけではなかったことは言える。

         日本でもかつて、自嘲気味にオレは会社にとって歯車の一つだからやるしかないと言い放つ企業戦士がいたが(ただし大多数は強制や義務感だけで企業戦士だったわけではない)、産業革命後の西洋の労働者は、まさに分業制の工場における歯車の一つだったのである。そこには、キリスト教の教えからくる、パンとぶどう酒を得るための労役という考えが冷徹に貫かれているように感じられる。言うまでもなく、キリスト教、イスラム教、あるいはユダヤ教は、約2千年前以降、砂漠かそれに近い環境のもとで生まれたものである。

        たしかにそこには、家畜がいてぶどうの木やオリーブがあり金属器もあった。しかし、豊かな四季や照葉樹林があって2千年前まで本格的な農耕(稲作)を知らずにいた列島とは大いに異なる自然環境なのである。この違いは、人と自然、人と動植物、なにより人と人との関係に独特の差異をもたらさざるを得ない。

        日本は明治以降、急速に工業化した挙げ句、太平洋戦争まで突き進んでしまったが、この間も人と人との、また人と仕事との関係のあり方には、長年の日本独特の文化、とくに江戸期以降のスタイルが通底していたのは間違いないであろう。そうでなければ、生まれ育った家にも比肩し得る帰属意識で、ウチの会社という言い方や、企業城下町といった言葉は生まれて来なかったであろう。

         江戸時代の大店での、公私にわたる奉公人丸抱えに近い制度は、今から言えば批判に値するところがあったにせよ、少年少女を奉公に出す親によっては、口べらしとして有り難い受け入れ先でもあったわけである。そのうえ奉公人によっては、当主と赤の他人ながら、(もちろん長年の刻苦勉励によって)跡継ぎ同然の立場にまで昇り詰める者もいたのである。

         単純な比較によって独仏等の徒弟制度から連想しては、その功罪を見誤ることになりかねない。

        さては、年端のいかない子どもの年季奉公の一方、障害を持つ子どものかつての境遇は如何なものであったろうか。この点に関する歴史資料は決して豊富とは言えないが、なにも盲人だから検校への道か、琵琶法師への道しか進路がなかったわけではないことはもとより明らかで、市井でのさまざまな生き方を示唆する史料が近年見出だされている。西洋でももちろん、せむしだったからノートルダム寺院で鐘を撞くほかなかったわけではない。

         歴史学や民俗学以外でも、日本が得意とする霊長類研究の分野で、われわれの固定観念を打破してくれる実験・観察や研究成果が続々と報告されている。研究対象としては主にボノボやチンパンジーであるが、霊長類たちがヒトに劣らない柔軟性で障害を持つ個体を群れに受け入れている例が多数紹介されるようになっている。

        目が見えなかったり、四肢が不自由なかたちで生を享けたら、野生もしくは準野生の世界ではたちまち死に直結するとわれわれは考えがちだが、それはあまりに先入観にとらわれた即断である。障害を抱えて自らは狩りに参加できなかったり、移動に困難が伴う個体でも、群れの中でのアシストやケアを受けつつ、成体もしくは成体に近い年齢まで暮らすことができるのである。

         たとえ動物学的に近縁種とはいえ、類人猿とわれわれ人間とを対比させて論じるとは何事かと、異議を唱える向きもあるであろうが、いちど原点に戻って考えていただきたい。ヒトにしろ類人猿にしろ、誕生する個体群の中に心身機能や感覚器官等に何らかの障害を持った個体が含まれることは避けがたい。これら障害を持った個体をどう社会や群れの中に取り込み、ともに充足できる生活をいかにして営んでいけるかは、情動を持った社会的動物としての、ヒトと類人猿との真価が問われるところであろう。

        この点でまさかヒトが類人猿に遅れをとるなどということがあってもいいとは思えない。(失礼乍ら)類人猿でさえ狩りに参加できない個体が群れの中で生き続けている例が見られるのである。

         ヒトの場合、かつてのわが国の例でいえば、狩りには参加できなくても、水田耕作や漁撈採集のような共同作業においては、ムラの老若男女に加え、障害を持つ者もその身体能力に応じて役割を果たしていたのである。それが、分業化が徹底した高度工業化社会では、障害を持つ者の職場参加がはじめから疎まれる傾向が出てくるようになった。一因には、総じて能力的に劣ると固定観念で見られていることがある。

         だが、障害を持つ者の、パーソナリティーは様々であり、その能力も様々である。作業の種類によっては、健常者より知的障害者のほうが、(平均的に)効率がすぐれている場合も少なくないし、また、プログラミングやデータ処理の分野では、常人が到底及ばない能力を発揮している発達障害者もいる。

         ただし問題は、能力の有無如何の前に、それぞれの能力を発揮させるための環境づくりが、職場や訓練等施設でどれだけ行き届いているかである。この点のケアこそが、障害を持った者に働いてもらう上で、最も大事なポイントになるであろう。単なる社会制度の適用や待遇の改善だけではこれが望めないのは言うまでもない。積極的に障害者雇用を進めている先進企業の取り組みには、この不可欠な前提となるケアが、それぞれの業種・業態・規模に応じて(人的・物的)必要条件をクリアしつつ、長年実践されていることが見て取れる。

        こう述べては顰蹙を買うであろうが、これらの先進企業による、障害者の職場定着を図る営みは、いわば、ヒトの社会が類人猿の群れよりは高度であることを証すためのものの一つであると言える。

        【蛇足】蜜蜂や蟻などの社会的昆虫が行う利他的行動は、あくまでも全面的に本能に基づいたものである。類人猿の場合、利他的行動に、群れによるヴァリエーションが見られるということは、そこに選別や試行錯誤があり、知的作用がはたらいていると言える。

               遠藤一秀
         

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